未来への種まき~伝え続ける語り部プロジェクト~


斎藤咲さん「災いの灰のなかから成功のバラが咲く」



Aちゃんは10歳の女の子。国語と図工が得意で、算数がちょっとだけ苦手。 隣で勉強している2年生の子の問題を見て、「いいなぁ。私も2年生の算数なら分かるのになぁ」ともらした。 「それじゃあ、2年生に戻りたい?」と訊く。Aちゃんはしばらく黙ってから、ぽつりと言った。 「ううん、戻りたくない。地震はもうやだもん。」

3月11日は大学の合格発表の翌日で、私は仙台の寮にいた。 忘れもしない午後2時46分、お皿が真横に飛ぶのを初めて見た。 あの時ほど生命を脅かされるような恐怖を感じたことは、今までにない。 もう助からないと思った。19歳の私でさえそんな思いをしたのだから、 当時8歳の女の子にとってはどんなに恐ろしかったことか。 3月の東北はまだ凍えるように寒い。Aちゃんは家族と身を寄せあって避難した。 地震の悪夢覚めやらぬうちに、今度は放射能の脅威が人々を襲い、 Aちゃん家族も住み慣れた土地を去るよりほかなくなった。 友達や他の親戚と別れ、遠く離れたよその土地へ移り住むのは心細くて仕方なかっただろう。

偶然にも同じ年に、私も京都にやって来た。 そして今は、Aちゃんと同じように故郷を離れ、 京都で暮らしているご家庭のお子さんたちを対象に、週に一度 勉強会を開いている。

京都に来たばかりの頃、まだ物の揃わない部屋にテレビだけは置いて毎日見ていた。 連日報道される震災関連のニュース、「トウホク」「フクシマ」の文字…。 どこか異世界の出来事を見ているようだった。 画面の向こう側にはもう、豊かな自然と人々のあたたかさに包まれたふるさとの姿はない。 当たり前だと思っていた日常を波がさらい、放射能が汚染した。 かけがえのない宝物がいくつも奪われた。

けれども同時に、人は闇に堕ちて初めて、それまであった微かな光を感じることが出来るのだと知った。 私の身を案じて、朝も夜も祈ってくれた家族や友人。 見ず知らずの相手のために、世界中から駆けつけて来てくれたボランティアの人たち。 避難所の至るところで聞こえる「ありがとう」「お互い様だよ」の声。 そして関西でも、遠く離れた土地を思って涙してくれる人たちがいるということ。 ありふれた日常がどんなに価値のあるものだったか、苦しいくらいに思い知った。 そして、やっぱり私は東北が好きなんだと気づいた。 いつかは東北へ帰って、そこに住む人々が心ゆたかに暮らせるように、自分の力を尽くしたい。 そう思うようになった。

ある避難者の方には「本当に、よく考えてね。」と言われた。 また別の方には「無理に福島にボランティアに行く必要はない。 若い人があんな危険なところへ行ったらだめだ。」と牽制された。 放射能の恐さを知っているからこそ、かけて下さる言葉。 脅威を完全に防ぐことが出来ない以上、少しでも速く、少しでも遠くへ逃れるしか道はない。 それは分かっている。分かっているけど…。 東北にとどまって、復興を支えている人たちがいることを思うと、 「何とか自分も駆けつけて力になりたい」と、いてもたってもいられなくなるのだ。

私が今年の夏に福島と岩手で出会った人たちは、 みな素朴なあったかさと芯の強さを持った人たちだった。 ある現地の方に福島からの避難者の方々の話をすると、 「『故郷を捨ててきた--』。そんなふうに感じている人がいるとすれば、とても悲しい。 その人自身は何も悪くないのに、負い目を感ぜざるを得ない状況にした現実がただただ悲しい。」 とおっしゃっていた。皆それぞれ異なる立場で、様々な思いを胸に抱きながら生きている。 それなら私は「今この現実」に居合わせた者として、一体何ができるだろう。

今私が京都で細々とやっている活動は、 「東北の未来のために」という目標に比べたらちっぽけなことかも知れない。 けれど私が出来うる精一杯のささやかな活動も、きっと未来への地続きの道を歩む着実な一歩だ。 京都で出会えた福島の子どもたち、ご家族の方々との縁に感謝しながら、 少しずつ自分の出来ることをやっていきたい。東北の問題は、日本の問題だ。 県境があるのは地図の上だけ。実際目に見える境界なんて存在しないのだから。

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